Retina表示と文字や画像についての一考察
Retina の iPad3を使って判ったこと。
視覚的なストレスが減った。文字や絵の「もう少し細部」を反射的 and/or 自動的に観ようとして見える筈の無いことに気づく、というのが意外とストレスであるということが判明。紙やRetinaだと大丈夫。
Retina以前は紙だけが対照群だったので漠然と紙の良さ的に考えていたけれど。文字などは読めれば良い、様な物だけど目と視神経と脳の関連部分は勝手に線の微妙なカーブや端の形状などを観ようとしてドットのマトリクスにぶつかって戸惑う。
紙の印刷でも粒子が粗いモノや色ズレがあれば同様の感覚に。このへんは近視や乱視で「読めない」サイズでもボヤケ具合の違いなどで、やはり戸惑っている(と思う)。
もう一つは、画像などで「まず大まかに表示されて後ジワジワと高解像度の表示にかわっていく」タイプの表示に対するイラつき。
この手の画像の出始めは、とりあえず先に大まかなことが判って便利、と思っていたが、今は、目が勝手に表示されるより先に細部を観ようとして戸惑う弊害が大きく感じる。
特に大まかなことが判りそうで判らない中途半端な解像度で表示されると困る
(これは当たり前か。初期状態としてどのくらいの解像度で見せるかを設定できれば良いのかな?でも作成側と見る側の思惑が一致するとは限らないし)。
というわけで今は、端から順次、最終解像度でじわじわ描画される方が好ましく感じる。
もちろん「低解像度から高解像度」のタイプでもある程度以上の速度で変化すれば問題ない、ようでありますが、このあたり、体調とか個人差があるのかとか調べると面白そう、と思いませんか?
ココまでの話は、先日blogで紹介した iOS App の
「MAU M&L 博物図譜」
の使用感で実感したこと。
このアプリの画像はApp内に最初から入っているのではなく、大学のサーバから随時読み込んでいて、表示の大部分が「低解像度から高解像度」タイプ。
ページを進むたびに「低解像度から高解像度」に表示されるのだが、特に通信で引っかかって高解像度化が遅れるとストレスが大きくて。
RetinaのiPad3なので表示完了後の視覚的ストレスは無いけれど、気軽にパラパラと眺めようとすると…(^^;
こうなってくると、この手のアプリも動画の様に通信速度の保証とかバッファリングの為の明示的な停止の演出などが必要なのかなぁ
などと考えて、なかなか面白い研究課題だなぁと思った次第です。
以上(2012.09.24 初稿)
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